昭和54年07月02日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話しにしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話しをしていくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬよう人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 最後になってゆく程、難しい御理解ですね。神心となりて、人へ自分のおかげを受けた事を伝えてゆく。そして真の信心をさせる。それが神へのお礼ぞと。又それが神になるのぞとまで教えておられます。ね。神にならせて頂けれる手立て。金光教でいう神とは、勿論生神ということも。生神というのは、普通でいう生神様というのではなくて、本当にわが心が神に向かい「生神とは、ここに神が生れると言う事であって」と、教えられるような意味においての生神です。
 ですから普通でいう生神とは、大変意味が違ってまいりますです。そういう内容を、私共の信心内容として、信心をまぁ進めていっておるわけでございます。私は今朝から、今度今のお広前金光様が明日からですね、三日から広島の病院に入院をなさると言う事。一ヶ月位入院なされねばならないそうですが、金光様もやはり糖尿病から来る所の、目のうすうなられておるわけです。
 私も糖尿病からだろうと思うのですけれども、本当にこの頃目がうすうなっておる。こうやってお話ししとっても、その手前の人だけは分かるけれども、向こうの人はだれか分らん位にはあるんです。だからこれは本当にまるっきり、本当に自分の事の不自由、金光様の場合は、それをもっとご不自由であろうと思うて、その事をお願いさせて頂いとりましたらね、「人の事は自分の事」と頂いたんです。
 だから皆さんがねお導きをなさるとか、又あのう自分の周囲の誰かれの事を祈られておるという事はね、それはもうその人のための事ではなくて、自分の為なんですよ。だからその自分の為に祈って、自分で自分の事を祈ると言うのは、それはそれまでの事ですよね。三代金光様に、ある宗教新聞の記者が、何か一問一答を試みた事があった、御結界に出て来てね。それで「金光様、そのあなたは毎日、朝の四時からここに出てみえられて、何を祈り何を願われますか。」と言うてお伺いした時に。
 金光様が「世界総氏子の身の上安全を願います」と仰られたそうです。ね。世界総氏子の身の上安全を願います。「金光様そりゃあまりにも大きいから具体的にお話下さい。」と言うたら、「大は小を兼ねますから」と仰られたそうです。ね。いかに金光様が、世界総氏子の事を祈られるという、その祈られる実感が、それはそれこそ自分の事を 祈られる願われる程しの実感。自分が痛い痒いを感じる程しの実感をもって、願われておられるなぁと言う事が分かります、ね。
 世界総氏子の事を願っておりますけども、そのなかには私自身の事も入っておるんですよ、と言う事でしょう。本当に今度の1時の夏期信行にはね、この金光様のおかげを受けて頂く事を、また前にも増しての御用が出来られる事を、これはもう全教信奉者の為に、信奉者が皆、祈り願わなければならないことなんです。だからただ通り一片の、ただ御祈りというのではなくて。それは自分の事のような実感が、そのなかにはこめられておらねばならない。
 私も糖尿病で、私も段々眼がうすうなっていっておるという、それで実感が出たのではないでしょうか、祈りの中に。だから神様はね「人の事は自分の事だ」と、私自身の言うなら体の事、言うなら眼がうすいなら、眼がうすい事を祈っておるのと同じに、神様がいや同じ以上に受けて下さると言う事。ね。人におかげを受けた事を実意丁寧に伝えていき、また金光大神の教えを頂いて、自分もそれを実験実証させて頂いたお話を違わぬように人へ伝えていく。
 今日私はある方のお夢を頂いた。大変熱心に信心をして、段々本当に大変おかげを受けておられる。その方がえらいいろ青ざめて、そのこう憔悴しておられる姿を頂いたんです。ですから、あらこれはここまでもおかげを頂いとって、どうした事であろうかと、夢の中で思わせて頂いておりましたら、丁度この私の眼鏡はベッコウですけれども、このベッコウで、あれは今頃でもやはりよく見るんですけれども、女の方が大きな、大正時代の女の方がよくさしましたよね、こうあの簪(かんざし)ですかね。
 なんちゅうか彫り物、ベッコウに花のような、あれがこう大ゆうなったやつ。ピンの大きなやつです。あれをこう挿すところを頂いた。そして髪が綺麗に結い上げてあるんですよ。やっぱりあの大正時代のような、あのう髪にです。そしてそのピンをこう。だからはぁおかげを受けられたなあ、おかげをうけておられるというのは、そのまま髪を結い上げておられる、というそのことだと思いました。いうなら信心が、だんだん分かり頂いておられると言う事。
 だからその信心を、もっと素晴らしいものにするために、いわゆるアクセサリーですよね。いうなら簪をそれに挿して髪の形もよいが、またそのアクセサリーもなかなか生きてくる。髪が生きて来るそのピンが生きてくる。と言う事だと思わせて頂いたんです。だからこれ程だんだんおかげを頂いて来ておるのに、あらこれは又おかげ落としたんだろうかと言った様なところが、いうなら信心のおかげというのには、様々ないうならこう、起伏とでも申しますかね。
 おかげ頂いたかのように見えて、又おかげ落としたかのように見える。それはそうじゃない。その根底にあるものは、神愛だけであってその神様がね、次ぎ髪を結い上げたその上に、その簪を下さろうとする働きであると言う事であるから、実はどんなに私がその頂いた憔悴した顔をしておられても、ははぁこれで又今度は結い上げた上に、又その神様から特別なおかげを頂かれるな。人が見ても成る程、髪が結い上げてある。やはり信心が出来ておられる。だからその信心にはおかげが伴うておる。
 しかも誰が見ても聞いても、はあ成る程金光様の御信心ですねと。たとえばそれが体の体の場合いであるならば、はぁあの人はもう医者が見放したというほどしの、まぁ様子だったが、金光様の御信心によっておかげを受けられた。言うなら、かに見えた。所がまた此の頃いやに憔悴しておられる。やっぱり金光様でも助かる事が出来なさらんとじゃろうかと、人が思う位自分もそれを感じる位い。けれどもそこで今度は神様が、いよいよ誰が見ても聞いてもです。成る程髪型もよいが。
 その簪を挿してそれが一段と映えて来る。おかげを頂いた時には誰が見てもいいなぁと言う事になる。ね。だから私共が信心を進めていく上にはねそれがあるんです、ね。はぁ信心のおかげを頂いてきた。自分の信心の調子が出てきたら、仕事の上にも調子が出てきた。はぁやれやれおかげだなぁと思いよると、それがおかげではなかったかの様に、すとっとこう落ちる様な事があるんです。だからそこん所をですね、先日光昭が言うんじゃないけれども、そういう時こそいよいよ信心の実験実証を頂く時であると。
 そしてそれを頂いた時には、今まで髪型を綺麗に結い上げていただけじゃない、それに相応しいいうならば簪まで挿してあると言う様なおかげ。それをいうなら見た時、又はそれを聞いた時、成る程本当にそうですねと、言うならば相手にも納得させられる時じゃないでしょうか、ね。自分の心の中に、信心の喜びがいっぱいである。本当に信心ちゃ有難かですばい。と言いながら例えば金が足らんとか、体が弱いと言うとったんでは、そのうやはり皆にそれを示す事が出来ない。ね。
 髪を綺麗に結い上ると同時に、その上にね誰が見てもおかげ、と言われ思われるようなおかげを頂くためには、そういう信心の起伏状態の時、ね、その根底にはもう神愛が流れているだけ。次ぎの力次ぎのおかげ、ね。誰が見てもおかげと分からせて下さる程しの実証が出けた時、始めて人へもいうならば、伝えていけるのではないでしょうか。又伝えられた者も、ほんにそうですねと合点がいく時ではないでしょうか。しかもそれがその人に伝えていくその心もね。
 いかにも自分自身が痛い痒いから、痛い痒いを感じているような気持ちで、痛い痒いと言う人の事を祈っていく願っていくという。人の事はいうならば自分の事としてと、言う様な祈りが又は話が、真の道を伝えていく、真の信心を話していくと言う事になるんではないでしょうか。そういう信心を頂いて初めてね、神様への本当の御礼になるんじゃないでしょうか。成る程それならば神様へ近づいてゆくという、ね。それが神になるのぞと言う事になるのではないでしょうか。ね。
   どうぞ。